見知らなかつた微妙な世界

 笑ふ男の背中から取り出された円みある柔らかい音。馬耳はその音に新鮮な力を、そして甘美な新鮮そのものを感じた。見知らなかつた微妙な世界が、また一つ展らかれたのだ。馬耳は新鮮な音に就て反芻した。「うまく、とれたな……」 馬耳は笑つた。そして三人は声をたてゝ笑ひだした。茫漠たる黄昏の靄のなかにて、哄笑する三人のひとびと。 女は雉《きじ》を膝へ載せ、綺麗な鳥ね、これ雉なのねと言ひながら、塵紙をだして掌についた血を拭ひ、わりに血の出ないものね、これつぽちかしらと呟いた。そして鳥を持ちあげて傷口をしらべ、これつぽつちか出ないんだわと又膝へのせて、綺麗な鳥だわ、それにちつとも怖くないのねと男の顔を媚びるやうに見上げた。「怖いものか。生きてゐるより、よつぽど無邪気ぢやないか」「ほんとうにさうね」 女は顔をかゞやかして答へた。 馬耳は静かに立ち上る。そして黄昏の庭を見る。馬耳は又不思議に新鮮な言葉をきいた。そして新鮮な言葉を反芻する。生きてゐるよりも無邪気ぢやないかといふ男の言葉。馬耳はその言葉に異様な同感を覚え、同感の奥深くに死んだ鳥の多彩な羽毛を思ひ浮べて、それを確かに綺麗だと思つた。そして、指の又の凝血を拭ふ女の花車《きゃしゃ》な指つきを感じた。「アポロン! アポロン!」 龍夫は縁側に腰をおろして、エアデルを呼ぶ。犬は夕靄の彼方から龍夫の足もとへ走つてくる。 ――HALLOO―― ――HALLOO―― 黄昏が帰滅へ誘ふ遥かな言葉。茫々たる愁ひが流れる。愁ひは枯れ果てた高原を舞ひめぐり、静かな興奮となつて馬耳の胸に一とひらの冷めたい血液を落した。犬が夕靄のなかを走つてゐる。そして、夜が落ちた。

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