秘密の靄を燻蒸する一人の女

 女。……隣部屋には秘密の靄を燻蒸する一人の女がゐるのである。 そして、籐椅子へ凭れたまゝ直ぐさま横へ顔をそらせば、そこにも――一つの「もの」がある。それは昔女であつた。それはこの三年越しそこに睡むり、そして馬耳はそれのみを女と信じ、それから受ける全ての思ひ、たとへば冷淡な死と悲しい無関心さへ女の属性の一つであると信じつゝ、決して疑念の起らなかつたもはや現実には死滅した「もの」がゐる。それはもう一つの「もの」に還つてゐる。馬耳は悲しい心を感じた。 ――悲しい妻よ。お前の生涯は不幸であつた。私のやうに…… ――悲しい妻よ。お前は男を知らなかつたに違ひない。なぜなら、私も亦お前のやうに生命のない「もの」だつたから…… 馬耳には漢民族の鼻髭があつた。それは垂れ、そして死んでゐた。 龍夫には良く刈り込まれた鼻髭があつた。そしてそれは男の飾りであつた。装飾のある男。そして、男。馬耳は龍夫に男を感じた。時雨に濡れた高原を踏み、濡れた冬空の下では濡れた灰色にぶす/\光る二連銃を担ひ、静かに白樺の間を通る鼻髭を思つた。冷めたい部屋に端坐して多彩なものを燻しながら濡れた鼻髭を思ふ一人の女。そして馬耳に、男と女の静寂な秘密が分つてきた。…… その黄昏。―― もう高原も茫漠とした靄の底へ沈んでから。龍夫は漸く帰つてきた。 龍夫は裏門をくゞり、玄関へは廻らずに、築山をぬけて、庭先から、馬耳と籐椅子のある縁側へ辿りついた。 龍夫は縁側の前に立ち止り、そして佇み、出迎への女と籐椅子の馬耳を代る代る眺め廻して笑ふのである。二人の顔を剽軽に眺め、ながいあいだ笑つてゐた。そして漸く女が笑ひだしたとき、肥つた男は声をたてゝ哄笑し、漸く馬耳がその意味を悟つたとき、笑ふ男は後手に廻して背中に隠しておいた大きな獲物をあらわして、縁側の上へそつと置き、そして置き乍ら、笑ふ顔を突きあげて二人の顔を交互に眺め、置き終へて、冬空高く哄笑した。 縁側の上に、柔らかい、そして重みあるコトリといふ物音がした。音がしたのである。柔らかい、まるみのある物音が。そして多彩な羽毛に覆はれた大きな肉塊が床板の上に絵となつてゐた。

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