馬耳は考へる

 馬耳は籐椅子に身をもたせ、女の姿が見えない位置に身を置いたとき、安心して隣室の方をながく眺め、編み物をする白い手頸を想像した。さうして、前こごみとなり、隣室のなかが見える時には庭の黄昏を眺め、高原を踏む荒い跫音を考へた。「今宵、荒々しい闘牛士の訪れ」 馬耳は考へる。自分はなぜ椿と呼ぶ若い教師に会ふ気持になつたのだらう。何を話し、何を尋ねるつもりなのだ。 恐らく――彼は思つた。 ――若い生き生きした世界に興味を感じてゐるのだ…… 左傾。彼はそれを憎む気持になれなかつた。理論は問題にならないのだ。迫害のなかにも自分の情熱を守らうとする白熱した生活力が、彼には不思議な驚きに見え、讃歎に見えた。馬耳は自分に失はれた若い生き生きした世界に就て考へてみる。 もう二尺籐椅子を前へ動かしたら、女の姿が見えるのである。 女の夫は毎日二連銃を肩にして猟にゆく。女の夫は前文部参与官であつた。内閣が変り閑地について彼は実家へ遊びに来てゐた。そして、自慢のエアデルを従へ、濡れた冬空の下では鈍い灰色にぶす/\と光る銃身を提げて毎日高原を歩き黄昏に帰つてきた。前参与官は龍夫と呼んだ。龍夫には肥つた腹と、よく刈り込まれた鼻髭があつた。鼻髭は濡れた白樺の林を歩き潤んだ朽葉をひそ/\と踏んで、冬空の隙間を通つてゐるに相違ない。ときどき高原の奥から鉄砲の音がきこえてくるのである。 もう二尺前へ動けば女の姿が見える。女は編み物をしてゐる。ときどき雑誌を読んでゐることもあるが、今は毎日猟に行く龍夫のために温いセエターを急いでゐるので、終日白い手頸を動かしてゐる。ときどき手を休めて、左手の拇指《おやゆび》を帯にはさめ、充血して表情を忘れた顔をまつすぐに挙げて、冷めたい庭先を見てゐることがあるかも知れない。そしてその時鉄砲の音がきこえたなら、女は大理石の彫像となつて幽かな微笑を泛べるに違ひない。 きりつめた生活ではまだ炬燵をかけるにやや早い初冬なので、馬耳は弟夫妻のためにも小さな火鉢で我慢してもらつてゐるが、それだけの乏しい火気では少し膝を崩しても寒さが身にしむに相違なく、部屋の空気が僅かにちり/\と揺れてさへ痛むやうに冷めたいだらう。女はさういふ環境のため、殊更堅く、つめたく、寒々と端坐してゐるに相違ないのに、その洞窟のやうに広く冷めたい部屋のなか、その中央に竦むやうに動かずにゐて、女は、なんといふ生き生きとした多彩のものを燻蒸してゐるのであらうか? 女には秘密の香気と秘密の色彩と、そして秘密の流れがある。流れは静かな花粉となつて舞ひ、そしてめぐり、無数の絹糸の細さとなつて空気の隙間をひそ/\と縫ひ、部屋の片隅に流れ寄ると壁と空気の間を伝ひ、そして、花やかな靄となつて縁側の方へ漂ふてくる。

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